昭和47年4月22日 朝の御理解         (末永信太郎)

御理解第98節
 心は神信心の定規じゃによって、お伺いをするときには、とりわけ平気でなければならん。落ち着いて静かに願え。


 心は神信心の定規、素晴らしい表現だと思いますね。これは、どういうことになるかと言うと、心というもの、心次第でおかげが頂かれるという道。此方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰せられる。いわゆる、喜びということは、いわゆる、喜びのことなの。心が喜びに満ち溢れておる。ね。 私どもは限りなくおかげを頂きたい。これは、財産を作って行く人が、やはり、どれだけ財産が出けても、やはり財産を作るということには、大きな興味を持つように、私どもがどれだけおかげを頂いても、おかげを頂いても、これで良いということはない。ね。
 相手が天地の親神様、相手が無尽蔵のいわばおかげの所有者でお在りになるのですから。その無尽蔵のおかげに入って行こうと言うのですから、限りがないのです。財産作りをする人がなんぼ財産が出けても、なおまた、その上に財産を作ろうとするようなもの。だから、このおかげという、今日、私が言っておるおかげというのは、物質的とか金銭的というようなことも中に含まれております。
 けれども、すべてのおかげというかね。いわゆる、まあ、最高のおかげを神様が喜んで頂くようなおかげ、神様が助かって下さるほどしのおかげ。先日の御大祭の私の挨拶の中にも申しましたように、合楽と言うのは、ね、私が楽になったら、家内が楽になっておらなければ本当な楽じゃないて、合楽。私が楽になっておって、子供が難渋いたしておりましたら、それは本当の合楽じゃない。ね。
 私が楽のおかげを頂いておる、私がおかげを頂いておる。なら、私の周囲の人達が一人ひとりその楽に、そのおかげにあやからせてもらえるほどしの楽でなからなければならない。私がおるために、相手の人が不愉快になったり、難儀になったり、ね。人間関係なんかそうですね、相対ん時に、私のために人が不愉快になるというようなことでは、いわゆる、合楽じゃないのです。
 合楽ということは、そのまま、言うなら神様の願いであり、また、神様もその氏子の心によって、神様自身も助かろうとなさる、なさっておられる。私が助かるということが、神様が助かって下さる。それを、なら、この頃からの御理解では、自然に溶け込むといったような御理解を頂きましたね。
 自然に溶け込むことによって、自然は生きるということ。私どもが神様の心に溶けこんで行くということが、神様が助かって下さるということになるのです。そこで私どもがね、その神様のお心に溶けこむということは、まあ、神様任せになるという、自分というものを空しゅうした心。お任せするという時には、自分というものはないですわね。そういう心です、私がない、自分がない。言うなら、我がない。
 そういう心、神様にお任せをするということは、ね、神様の中に溶け込んだ姿。そういう中に、神様が助かって下さるから、私どもも助かる。氏子が神様任せなら、神様がまた氏子任せになって下さるからと仰る。ね。ですから、それは例えば、私どもがおかげを受けなければならない時に、まあ、言うなら部分的ですわね、そのことだけは任せられる。けれども、一切が任せられるということではない。
 だから、その全てが任せられるということは、私どもがいよいよ神様と同質のもの、同質の同じ室の状態のもの。神様が水であるならば、こちらも水。神様が油でお在りになるなら、こちらも油にならなければ、水と油が一緒にならんように溶け込んで行けんのです。ね。
 ですから、私どもが信心させてもらって、神様任せにならせてもらうということは、私を空しゅうするといほどしの素晴らしいことなんです。もう、人間の私を空しゅうした心ほど素晴らしいものはありません。また、協力なものはあいません。けれども、私どもの場合は、もう何もかにもという訳にはいけん。ね。そういうところから、信心のけいこが段々なされて来てです、もう、いわゆる私の全てが神様のお心次第ということになって来る。時には、もう、貴方は我がない時です。ね。
 貴方はもう、神様に溶け込んで行ける時です。そこに、神様が助かって下さる。自然に溶け込むということは、ね、自然を生かすことになるように、神様のお心任せになるということは、神様のお心の状態というものをです、私どもが身につけさせてもらうところから神様と一つになって行ける。
 神人一致の境地とでも申しましょうか。そこをお互い目指させてもらうのです。ね。そこでです、そこで神様のお心が知りたいということになるとです。ね。天地の心を知りたいということになるのです。金光様の御信心ていうのは、その天地の心。いわゆる、天地の心知りたしというところから、お道の信心は、本当のお道の信心というものはなされなきゃならない。ね。
 いわゆる、天地のいわゆる道理。ね。言うなら、天地の真。ね。それが、私ども氏子の心の上に頂けて来る。ね。そん、天地の心に添わせて頂く。いわゆる、貴方の心に添い奉る生き方をさせて下さいという願いも、自然、そこから出て来る。そこでです、心ということが問題になって来るのです。
 今朝、私、起きがけに御神眼に頂いたのは、ちょうどこう、大きな針金をまゆで作ったような、心という字を頂いた。まあ、下手な字のことを、かなくぎを曲げたようなと言うですね、かなくぎを曲げたような字を書いておる。かなくぎという感じじゃない。まあ、言うなら大きな針金を曲げて作ったといったような漢字。こういう感じで頂いておる、心という字を。
 ちょうど針金をこうやって切って、それを曲げて作ったという。どういうことであろうかと思いよった。まあ、私の心が、まあ、言うならば心、心と私自身言ってるけれど、神様の目からご覧になればです、まあ、針金を曲げて作ったような心の、まっ、ぎこちない心という字。それこそ、達筆に心と書いた、素晴らしい心ではなくて、こんなもんだろうかと、こう思わせて頂いて、今日の御理解を頂かせてもらったら、98節を頂いた。そして、この心は神信心の定規じゃによってと、はあ、心は神信心の定規だ。ここを頂いた時にね、今朝から頂いたことを思わせて頂いた。ね。
 次にあの、お伺いをする時にはとりわけ平気でなければならん、落ち着いて静かに願えということは、いわゆる、心の状態のこと。心が我情我欲があったり、ね、不安(の趣き?)があったり、イライラモヤモヤしておったんでは、神様には通わないということなんです。ね。ですから、今日は私は、心が神信心の定規だというところにね、一つ焦点をおいて頂こうと、こう思いました。
 そこで私どもはですね、いわゆる、さっきからも申しますように、限りなくおかげを頂きたいと思う、無尽蔵の世界に一歩足を踏み入れたのが、金光様の御信心を頂いたということだと思うです。限りないおかげに繋がって行けれる。ですから、そこんところを開拓して行くというか、そこんところを進めて行くということにです、もう、それは限りのないおかげ。物質、金銭、そういうことだけではない。
 もう、すべての上のおかげに繋がる。その最高のおかげを今日は、ね、神様の心に溶けこむ心、神様が助かって下さるほどしの心。ね。または、私が助かることによって家内が助かるほどしの心。私に縁ある、私に接する人達が全部助かって行くというほどしの心。それが、合楽だと、こう言う。
 そういうおかげを目指させてもらう。ね。そこで、私どもがです、分からせて頂くことですけれどです、それは限りなく頂く、私もそうです、限りなく頂きたいのです。もう、親先生あなた、もう、これしこおかげ頂いちゃるけん、他に何を望みなさるですかという人があるかも知れませんよ。食べることに不自由することはなし、お金は使おうと思やあ、なんぼでも使えるし、ね。もう、本当に言うことないのだけれども、私の心の中は、まあだまだ、こげなこっじゃ出来んと思っとる。
 もう、それこそ限りなくおかげを頂いて行かなければならんと思う。御大祭の私のご挨拶を皆さんにさせて頂いた。まあ、ご挨拶がそのまま教話になった訳でございますけれども、本当に私がここんところを分かって頂きたいと一生懸命に、わずかな時間であったけれども、聞いて頂いた。ね。
 もう、一人ひとりにね、私が今頂いておるようなおかげを頂いてもらいたい。それで、まあ、一生懸命聞いてもらう。ね。あのことが、一人でも二人でも本当のことが分かってもらえばじゃなくて、もう、参っとる全部の人に分かってもらいたいと、こう思うた。そしたらね、神様が、あの、蕗千本ということを頂いた、蕗千本。あのお野菜の蕗なんですよ。妙賀栄える富喜繁盛と、いつか御理解に頂いたことがある。茗荷って、これも野菜。それを、茗荷とは喜びの妙、ね、女偏に少ないと書いて、賀は「賀正」の「賀」、賀び、妙賀。蕗繁盛の蕗を、あの、富、尊いと頂いとる。ね。
 富喜繁盛のおかげを頂きたいならば、まず、妙賀が繁盛しなければならない。妙賀が心の中に蔓延らなければいけない。事実、茗荷とか蕗とかというものは、非常にあの、繁殖率と言うですかね、たくさん、こう、根を張って行くものらしいです。妙賀栄える富喜繁盛。ね。だから、ここにご縁を頂いておる、例えば、御大祭にお参りさせて頂いておる皆さんが一人ひとりがです、私が言うところのおかげを分かってもらい、頂いてもらいたいためにはです、私がもっともっと、その妙賀の世界というものを広げて行かなければならないということになる。妙賀の世界、いわゆる、賀びの妙と、賀びの世界、法悦の世界。ね。
 それには、私が20年前に頂いておりますように、彦山で十三年ぶりに咲くという茗荷の花がある、真っ赤な花です。これは、彦山にだけしかないそうです。それが、ある絵描きさんが写生して来ましてね、そして、私がちょうど久留米の三橋先生ところの御大祭を奉仕するために行っとりますところへ、あそこへ三橋先生の元のお友達ですから、訪ねて来た。
 そして、たまたま、その、御大祭を頂いて、私の話しを聞いた。その時の、その話が、いわゆる、妙賀ということであった。そしたら、後からお祭りが済んでご直会になりましたらですもん、もう、くしゃくしゃになったような絵をたくさん出されましてからね、これは先生にもらって頂きたいち言うのが、その茗荷の花でした。これは彦山で私が写生して参りました茗荷。これは十三年間に一遍しか咲かんという不思議な花です、茗荷の花です。真っ赤な花。それを、私がそれに賛を書きました。
 今、小さい茶の間かけぐらいの軸になってます。ね。うちきるは難しされど茗荷かな、という句が書いてある。ね。自分の心というものをです、見れば見るほどです、ね、これでは、まだおかげが受けられんはずだというものを発見した時に、それを切ることは難しい。けれども、妙賀の世界に入って行くことは、もっとそれよりも尊いんだという訳なのです。
 そこでね、信心させて頂いて分からなければならないことはね、御取次を頂いてお願いをすると、それは改まりもしなければ、磨きも、ただお願いをした、拝んだだけでおかげを受けるという時代から、いよいよ自分の心というものに本気で取り組ませて頂く。いわゆる、おかげは和賀心にありと仰せられるのですから、いわゆる、和らぎ賀ぶ心にありと仰せられるのですから、その自分の心というものを見極める時にです、なるほど、これではおかげの受けられんはずだというものを感ずる。ね。
 いわゆる私は、その蕗千本のお知らせを頂いてからです、ね、なるほど10本か20本かなら頂いとろうけれども、これが100本になり、1000本になるほどしのおかげを頂くためには、今のような心の状態じゃ頂けんということを気付かせてもらう。
 だから、一番素晴らしい信心の進め方はね、自分の心が確かに今日、心は神信心の定規だと頂くことなんです。それで、私はこんな風に、こんな心という字を頂いてから、心は神信心の定規である、おかげはまた、バロメーターでもあるということになるのです。これはね、信心がなくても、例えば財産を作って行くという、まあ、それもおかげですけども、そういうおかげは、もう絶対、害を流す、毒を流す以外にないです。ね。かえって、自分が不幸になって行くもとを作って行きよるようなもんです。
 信心を抜きにして、ただ、(がまだし?)出した、頭が理詰めが良うてお金が残って行きよる金は。これはもう、絶対そうです。もう、これは大地を叩くほど間違いないです、そういうお金は。そこで、信心をさせて頂いて、そこを分からせて頂いてからの財産。言うなら、自分の喜びの心に応じて荒れて来るところのおかげになる。これなら、また絶対、御理解百節にありますように、めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁ると言うではないか、というおかげになって来るのです。
 生神金光大神は、ね、子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃという、人間の誰しもが祈り願わせて頂くおかげの状態の中に入って行けれるのが、金光教の信心なんです。ね。昔の人は、子供のために子孫のために美田を残すなと言うたです、素晴らしいことだと思うた。ところが、金光様のご信心はです、美田を残さなければならない。それは、自分の信心の喜びに応じたところの美田である、山である、畑である。ね。
 言うなら、金蔵財産である。ね。ですから、やはり限りがないのです、頂きたいという心は。私もたくさんな人にここんところを分かってもらいたい。御大祭に参っておる全部の人に、私が今日言うておることを分かってもらいたい。それにはね、私自身がもっともっと、言うなら蕗千本のおかげを頂かなければならない。そんなら、現在の状態で蕗千本のおかげが受けられるかと、自分の心を見極めた時にです、とても、これではおかげが受けられないという、それこそ幻滅を感ずるようなものを心の中に感ずる。
 そこで、それを改めたり打ち切ったりして行くことは難しいなのだ。ある意味合いでは人間を廃業しなきゃならんような感じがすることもあるのである。けれどもね、打ち切ることは難しいけれども、それよりも、もっと尊いもの、もっと有り難いものは、妙賀の世界である。
 その妙賀の世界、いわゆる、限りないおかげの頂けれる世界。私は今日、これだけのおかげを受けておるのは、だから、私は信心のバロメーターです。ね。けれども、もっともっと、おかげを頂きたい。ならば、自分の心というものをいよいよ見極めさせてもらって、なるほど、これではおかげが受けられんはずだというものを分からせて頂くということが、私は信心がいよいよ分かって行くことだと思うのです。
 もう、このくらい磨いたけん、このくらい立派な心だから、これで良いということは絶対ないのです、人間の心というのは。例えば、んなら、おかげを頂かなければならないという世界が大きければ大きいだけ、ね、私のこの、こういう信心。教祖様が、ね、教えられた信心をこれだけ頂いておる。これだけ頂いておってもです、んなら、これを私が世界の人々に分かってもらいたいというような大きな願いを持っておる。
 これはもう、朝に晩に祈っておることである。世界の国々のこと、もう、世界の隅々におる人間氏子のことの幸せ、言うなら立ち行きを祈りに願いに、もうとても、あまりにも私にとっては大きな願いですけれども、願わなければおられないほどしのものを、この頃感ずる。
 だけではない、世界総氏子の精霊のことまで、最近は祈らなければおられない。苦しみの御霊、迷いの御霊。もう、それこそどれだけの数限りない御霊たちのそういう苦しみの蠢きといったようなものを少し感じ取らせて頂けるようになった。そしたら、そういう御霊達の家のことまで祈らなければおられない。これが、私の現在、祈りの内容である。ですから、それはまあ、大変なこと。
 だから、それが一つずつでも成就して行くことのためには、私がもっともっと、ね、蕗千本のおかげ。それには、私の心がいよいよ妙賀で栄えて行かなければならない。賀びの妙で心がいっぱいにならなければならない。妙賀が栄えて来りゃあ、富喜は繁盛して来るということになるのです。
 昨日、吉井の熊谷さんが朝の御祈念に参って見えてから、親先生、もう私は初めて分からせて頂いたという気が致します。何をですかち言ったら、先日、あの、前の日のね、御大祭の時に親先生がお話下さいました時に、ね、心の確認ということを、もうずいぶん若先生からも聞かせてもろうた、親先生からも毎日のように聞かせて頂いておるけども、私は昨日の親先生のお話を頂きながら、初めて自分の心が確認出けたという気が致しましたて。もう、熊谷さん、おかげを頂きなさったですねえ。皆が心を認めておる、確認しておるようであっても、本当に分かるということはね、今までのようなものではなかった、と熊谷さんが言っておられます、昨日。ね。さあ、ところがです、その心の確認が出けて来たらです、今言うように、これではおかげが受けられないはずだというものが、もう沢山分かって来た。
 もう、そのことの素晴らしいこと。また、そのことに取り組ませて頂くことのためには、自分の心が生き生きと若やいで来る、それを思うただけで。なるほど、信心して長生きをせよと仰るのは、そういうことだと私は思うですね。もう、私は70にも75にもなってからじゃけん、もうそげん、今から改まらにゃんてん、磨かにゃんてんちゅうようなものじゃない訳です。初めて、自分の心の確認が出けたんです。
 そして、これではおかげが受けられないはずだというものを見極めた。信心とはね、だから、心は神信心の定規と仰るんだ。これは、自分の心の確認が出けて、初めて定規ということになるのです。ね。そして、なら、限りないおかげに挑戦して行くわけです。そして、なら、挑戦して行くということは、どういう事かということを、自分の心に挑戦して行くことなんです。いよいよ自分の心の中にです、これではおかげが受けられないはずだということになるのです。
 真に心が神信心の定規であると分からせて頂くということは、そのまま、心の確認が出けたことなんです。ね。そして、これではおかげが受けられないはずだというものをそこに見極めるところから、精進がなされるわけなのです。ね。それを打ち切り、改まりさせて頂くところから、今まで感じ得なかった賀びの世界に入って行くことが出ける。その賀びに、その妙賀に、ね、富喜繁盛のおかげが約束されるわけです。しかも、これは限りないのです。それを残して行きたいです。
 これならば、いわゆる、金光大神はいよいよ、家繁盛子孫繁盛の道を教えられるという道は、そういうことだと、私は思うです。今日は特に一つ、心は神信心の定規であるということをです、確認させて頂いたら、いわゆる心の確認をそのようにさせて頂いたら、ね、定規を押し当てて見ると、なるほど、これではおかげが、受けておりますよ、おかげをたくさん。けれども、私どもはより、まだ沢山頂きたいのですから。
 ね、そこにです、んなら、これではまだ、私が願っておるような願いが成就しないんだと分かることなんです、信心とは。ね。分かるから、今まで出けなかった信心へ、自分の心に挑戦して行くのである。それが、切り取られて行く。それが、崩れて行く、無くなって行く。ね。そういう、無くなった心。
 そういう心がです、場合には平生心ということになり、ね、平気な心ということになり、そういう心で神様へ静かに願えと仰る。そういう心で願う。それはだから、もう、ピンからキリまでなんですけれどもね、心の状態というものは。けれども、私は、ね、初心の人。
 ね、まあ、どういう信心のベテランと言うても、ね、やはり、ここんところを極めて行くということは、もう、限りがないことですから、同じことが言えるのです。ね。私はもう、いよいよ、ね、合楽に縁を受けた限りの人がです、蕗千本のおかげを頂いてもらいたいと思う。
 それには、皆さんがどうでもです、自分の心の中に頂けて行くところの信心の賀び。いわゆる、妙賀栄える富喜繁盛。妙賀が栄えることが先ず先決。そんなら、その賀びを頂かせて頂くためには、今の貴方達ではいけないちゅうの。今の私では、もう、駄目だと言うの。ね。より大きな願いを立てるならば、これではいけないから、ね、次のおかげを頂くことのために、いよいよ改まって行かなければならない。
 いよいよ、限りない美しい心を目指さなければならんということになります。私は今朝から頂いた私の心の状態。私もだいたい、なら、心の確認は出けておる。けれども、その心の状態というものは、実にまだまだ、ぎこちない心である。限りないおかげを頂いて行くことのためにです、それこそ、墨痕鮮やかにですね、もう、素晴らしい心です(    )目指さなければならないけれど、今の私の心は、ちょうど今朝方頂いたように、針金をこう、曲げたごたる感じの、言うならかな釘を曲げたような字しか書けないと言われておりますね、下手な字を。ようにです、針金を曲げて作ったような心の状態しか頂けていないということをね、今日は教えて頂いたように思うのです。
 皆さんの心の状態はどうだろうか。皆さんの心の状態が、そのまま、信心の定規であり、これから頂いて行きたいという、その願いをいよいよ成就することのためには、今の貴方では駄目だということなの。ね。そこで、皆さんとしても、なるほど、これではおかげが受けられまいという心を、一つ取っちめて、その心を握って外さないという信心をね、いよいよ進めて行かなければならないと思います。どうぞ。